日本の医療制度は「いつでも,だれでも,どこでも」比較的安い費用で医療を受けることができることが特徴とされており,世界保健機関(WHO)の指標では世界一と言われています。一方で,現場レベルに視点を転じると,地域によっては医療,介護現場でほころびが見えつつあります。地域によっては医師が絶対的に不足しており,救急車の医療機関への搬送において,なかなか受け入れ先が決まらない事例や,遠方まで搬送せざるを得ない事例が発生しています。
また,都会で生活する夫婦が両親の住んでいる地方での里帰り出産を希望しても,地域によっては,分娩可能な医療機関が少なくなっているため,希望が適わない事例も発生しています。また,医療機関に入院している体の不自由な高齢者が病気の治療を終え,介護施設での生活を希望しようにも,地域によっては介護施設が圧倒的に不足しているため,施設が空くまで時間がかかり,その間,医療機関に入院をせざるを得ない事例も発生しています。
医療従事者,介護従事者に視線を転じると,救急,小児科,産科などに従事する医師の中にはほとんど家に帰らず,人生や家族を犠牲にして働いている人がいます。介護施設で働く従事者の中において,働きに見合う十分な報酬を受け取っている人は限られています。日本の医療はマクロでみた場合,一見,上手くいっているように見えますが,ミクロレベルでは問題が山積しています。マクロの問題もミクロの問題も国会において取り上げられ,議論が行われていますが,ミクロの問題に関しては,有効な手立てが見出されているように思えません。
私は,まずは医療と介護の問題を取り上げ,国の役割と地域の役割を位置づけ,国民的な議論,住民視線の議論を行いつつ,政策を進める方策を提案したいと思います。
○人口は減っていくが医療・介護の需要は増大する
日本の人口は現在,減少しつつあります。人口が減るので,医療,介護の需要が少なくなるのかといえば,むしろ逆で増大します。人間は,齢を重ねれば重ねるほど,体に不具合が発生しますから,医療,介護のお世話になります。団塊の世代が高齢者になりつつある今,高齢者の絶対数は大幅に増大することが予想されています。医療,介護のお世話になる高齢者の絶対数が増えますから,今後,医療,介護のニーズはますます増加します。
一つの例として,総務省消防庁は平成22年に救急搬送件数の将来推計を行っていますが,高齢化に伴って増加することが予想されています。医療費総額については戦後,一貫して増加してきました。今後の医療費総額についても将来,増大することが予想されています。介護給付費総額についても同様に増大が予想されています。
○医師数は足りているのか,それとも地域偏在なのか
平成十八年八月,奈良県の医療機関で分娩中に意識不明に陥った三十二歳の妊婦が,十八病院から「満床」などを理由に受け入れを断られ,最終的に,6時間後に大阪府内の医療機関に搬送され,出産したが,本人は出産後も意識が戻らずその後死亡した事例が発生し,メディアにおいて大きく取り上げられました。
その後,消防庁において実態調査を行ったところ,産科・周産期傷病者の医療機関に対する受入照会回数四回以上の搬送困難事案は,平成十六年の二五五件から平成十九年の一〇八四件と,四倍にも増加していることが分かりました。また,産科・周産期以外の救急搬送についても,受入困難事例が多数発生していることが判明し,重症以上傷病者の照会回数四回以上の件数は一四三八七件もありました。搬送困難事例が発生する要因として救急,小児・周産期医療に関わる医師の不足,さらに勤務医の疲弊,ベッドの不足などがあげられています。
まずは医師の絶対数について話を進めましょう。あるデータによると,勤務医の平均労働時間は63.3時間(長谷川敏彦2007年「日本の医療受給の実証的研究」)であり,法定労働時間である40時間を大幅に超えています。40時間の法定労働時間を守ろうとするならば医師数は50%増やさねばなりません。
ちなみに平均労働時間63.3時間の数字は平均時間ですから,ほとんど睡眠時間も取らず,働きづめの勤務医も現場ではいます。私も救命救急センターで救急医療に携わっていたころは,週に三日間の当直をこなしていました。昼間,通常どおり勤務を行い,夕方からそのまま当直に入り,一睡もすることなく患者を受け続け,そのまま朝を迎え,翌日,通常どおり勤務をこなし,夜,勤務先の仮眠室で爆睡といった生活です。
連続三六時間勤務と六時間の睡眠を繰り返すという生活です。私は体力のある方ですが,それでも二日目になれば集中力は途切れがちで,ケアレスミスを起こさないか心配でした。その当時,私も含めて救命救急センターの医師の誰もが自分たちは労働者であり,労働者は本来,労働基準法で守らることになっている,といったことを知りませんでした。
もし,私たちが労働基準法を知っていて,法定労働時間の40時間しか働かないことになれば,病院の機能は維持できず,地域医療は崩壊していたに違いありません。多くの医師は使命感があり,長時間労働を厭いませんが,長時間労働が医師の家庭やコミュニティでの時間を奪い,医師個人の健康を蝕んでいたとしたら問題です。また,長時間労働は集中力を低下させますから,万が一,医療ミスにつながり,患者の命を奪うとなれば問題です。さらに長時間労働が常態化している職場の雰囲気が,子育て中の医師や体力に自信のない医師の勤務を躊躇させていているとしたら問題です。
○日本における医師の養成
日本においては,医師の養成数は医学部の入院定員数でコントロールしてきました。戦後,「無医大県解消」のかけ声の下に,医学部,医科大学の新設が相次ぎ,医学部の入学定員数は8280人にまで増加しました。その後,医師数過剰による過当競争となるおそれがあることが問題視し始めました。真偽のほどは不明ですが,ヨーロッパのある国では医師の数が過剰であるため,医療機関で働きたくても働くことのできない医師がいるとの噂がまことしやかにささやかれていました。
ちなみに歯科医の世界では,歯科医師の過剰による歯科診療所間の過当競争が問題となっています。その後,医師については過剰を招かないように配慮することとなり,1982年以降,医師養成数は抑制され,医師養成数を7265人にまで制限することになりました。救急医療の崩壊が問題となった2008年以降,文部科学省は医学部定員を増やしました。2012年,医学部の入学定員は8991人となっており,5年前に比べると1800人増加しています。
日本の人口あたりの医師数ですが,地域格差が大きいことが指摘されています。地域格差には二つあります。一つは都道府県間の格差です。もう一つは同一都道府県内での格差です。まず,都道府県別で見た場合,平成22年医師・歯科医師・薬剤師調査の結果によると,人口10万人あたり医師数が最も少ないのは埼玉県の142.6人,最も多いのは京都府の286.2人です。日本全体で見た場合,「西高東低」の傾向となっています。ちなみに愛知県は191.7人です。
医師数の偏在に限らず,人口当たり医療従事者,病床数,一人当たり医療費のいずれも「西高東低」となっています。「西高東低」となっている理由は医学部設置を巡る歴史的な背景が大きいと思われます。明治期から第二次世界大戦前までに,東京大学,京都大学,九州大学,東北大学,北海道大学,大阪大学,名古屋大学,慶応大学,京都府立医科大学,東京慈恵医科大学,新潟大学,岡山大学,千葉大学,金沢大学,長崎大学,熊本大学,日本医科大学の順で設置されました。北海道に1校,東北に1校,関東に5校,中部に3校,近畿に3校,中国に1校,四国0校,九州3校となっており,「西高東低」となっており,これが「西高東低」の地域格差の要因となっていると考えられます。
都道府県間を超えた格差については,医学部入院定員の増加で対応しています。ちなみに愛知県において平成19年度と平成24年度の入学定員で比較すると,県全体で47人の増加(380人→427人)(+12.4%)となっています。一方で同時期に全国で1356人(+17.9%)の定員が増加(7635人→8991人)しています。愛知県の人口当たり従事医師数が全国平均よりも少ないことを考えると,都道府県格差の是正のためには愛知県の入学定員増は全国に比べて高くするべきところですが,増加割合が少ないことから,愛知県の定員増は不十分であると考えます。
名古屋大学 +12人(100人→112人)
名古屋市立大学 +15人(80人→95人)
愛知医科大学 +10人(100人→110人)
藤田保健衛生大学 +10人(100人→110人)
入学定員増以外の対処としては,研修医制度において,2009年に都道府県別の地域定員制を導入されています。一方で医師不足の県において医学部新設を求める意見もありますが,医学部の新設には多くの教員が必要であり,地域医療の現場から医師を引きはがすこととなり,地域医療の崩壊につながることから,医療界からは反対の声が多数上がっています。
○医師の都道府県内偏在
次に都道府県内の偏在について,愛知を事例にみていきたいと思います。平成20年の調査結果になりますが,人口10万人当たり従事医師数は尾張東部が353.7人,尾張中部が75.5人と4.7倍の格差があります。ちなみに75.5人といった数は日本の二次医療圏の中で最も少ない数であり,4.7倍の格差は東京都に次いで2番目に大きな数字です。
こちらの県内偏在については医学部入学定員の増加のうち,地域枠の設定で対応しています。地域枠の学生には奨学金が支給され,卒業後,一定期間,各県のニーズに合った地域,診療科で働くことが求められます。なお,地域枠の募集については,都道府県によっては定員割れを起こしています。また,また,奨学金とはいえ,お金で学生の将来を縛って良いのか,特に人権上,問題ないのか,との批判もあります。
一方で,地域枠で医学生を確保しても,彼らに対して地域医療に適した教育が提供されていないのでは,との指摘があります。たとえば,地域医療での活躍が期待される自治医科大学においては,地域医療に適した教育カリキュラムが用意されています。地域医療に貢献する医師を養成するためには,むしろそのための医学部を新設した方が良いとの意見もあり,なかなか結論が得られません。
また,都道府県内の医師の偏在の解消を目的に地域医療支援センターが設置されている都道府県もあります。都道府県が医師を確保し,それぞれの医師のキャリア形成支援を考えながら,必要とされている医療機関に医師を配置していくコントロールタワーとしての役割です。愛知県をはじめとした全国20か所に設置されていますが,取り組みは始まったばかりです。
○診療科の偏在
診療科別で見ると,小児科,産科,救急,外科が不足しています。日本の制度では,診療科については自由標榜制を取っており,医師は自分の意志で診療科を選ぶことができます。医学部5年,6年生の際の実習,卒業後の臨床研修の際に多くの診療科を回ることとなりますが,現場で働く先輩医師の背中を見て,どの診療科を選ぶかを決めることとなります。
医師の診療科の偏在に対して,救急や小児科,産科に携わる医師に対して手当を行う補助金事業が実施されています。また,最近の診療報酬改定では,救急,産科,小児科,外科に対して重点的に保険点数が付けられています。
○チーム医療の推進と医師不足への取り組み
医師不足への対応の一つとして,現在の医療資源を最大限活用するため,働いている医師の労働効率を最大化させる取り組みが進められています。病院内において,栄養や呼吸器管理,薬剤の管理などの分野でチーム医療が進んでおり,医師の包括的な指示のもと,専門性の高い各職種に業務をゆだねることで医療の質の向上を図るとともに,勤務医の負担軽減に繋がっています。
また,医師にとってカルテ記載,検査や薬剤のオーダーなどが負担になっていることから,これらの業務をサポートできる医師事務作業者(クラーク)を配置する医療機関が増えており,記録や書類の作成のお手伝いをしてもらうことで勤務医の負担が軽減されているとの報告があります。
とはいえ,診療報酬上,点数がついても医療機関が導入しなければ絵に描いた餅です。診療報酬はあくまでインセンティブであって,医療機関の責任者が導入の医師がなければ
特に公立医療機関では定員の問題があり,人を付けたくても人を付けられません。また,導入されている医療機関においても,医師がクラークの使い方を知らない,クラークが医師のサポートの仕方を知らないために,効果的に活用できていない事例もあります。
原則,一人の医師には一人のクラークを付けるぐらいのことをしなければなりません。