これまで,医療・介護の問題,教育や子育ての問題,そして経済の問題について私の考えを述べてきました。それぞれの私の考えには,私の思いや気持の部分もありますし,論理的に考えたらそうならざるを得ないという部分もあります。私だけが訴えているようなこともありますし,たくさんの人が同じ主張をしている問題もあります。ひるがえって,たくさんの素晴らしい意見がこれまでも提案されてきたにもかかわらず,それが実行されなかったのはなぜか,と問わなければなりません。そこには,深い深い政治システムの闇があるのだと考えています。政治家や官僚の汚職とかそういう表面的な問題ではありません。日本の意思決定システムの機能不全です。この意思決定の機能不全こそが,日本の癌の中枢なのだ,というのが私の見立てなのです。
ここまで書いてきたさまざまな政策について,私の考えが本当に正しいのかどうかは,やってみなければ分からない部分があります。いや,むしろ実行に移そうと思えばいろいろと不具合も出てくるに違いありません。しかし,私が根本的に問うているのは,何が正しいかということだけでなく,その都度その都度,現場的な感覚で微調整が可能であるか,ということです。そのような調整が,日本中のあらゆる場面で可能となれば,人口減少社会も怖くはないはずだと考えています。
しかし,どうも日本では大胆に方針を決めることも,微調整をすることもなかなかできないようです。それは,現在の政治的混迷,いや,政治的貧困といってもよい事態にもっともよく表れているのではないでしょうか。医療も介護も,教育も子育ても,政治が機能しなければ現状から改善されることはありません。だからこそ,私は政治家を目指しているのではありますが,仮に私が国会議員になったとしても,すべての事態について劇的に自体が改善されるとは思えません。もちろん,医療の専門家として本書に記したような改革を進めていきたいと考えています。しかし,海千山千の政治の世界で私という小粒の薬剤を投入しただけでは足りないでしょう。政治のシステムを根本的に変えなければ,どのような素晴らしい提案も絵にかいた餅にならざるを得ないのだと思います。
経済においても同じです。そもそも,経済とは貨幣の流通のことであります。私経済は利潤動機で,公経済はニーズに基づく政治的合意によって貨幣は流通すのです。この貨幣の流通が増加することを,一般的に経済成長と呼びます。私経済と公経済の領域の区切りは,普遍的な公理が存在するわけではなく,民主主義の下では民(たみ)が決定することができるのです。このような見方に従えば,日本経済の行く末は民主主義にかかっている,ということになります。もっというと,政治システムの困窮がこの失われた20年を作り出したのであり,いままさに失われた30年へと突入させようとしているのだということです。だからこそ,政策を提案するだけではなく,それを実現するためには,やはり癌の中枢にメスを入れざるを得ないのではないでしょうか。
政治家が悪いのか,それを選ぶ国民が悪いのか
これまで,政治家らしからぬ話ばかりしてきたように思います。あえて,政治を突き放したような態度をとってきたといってもよいでしょう。というのも,私が目指しているのは政治家というよりも,「政策屋」であるからです。どろどろとした政治の世界は闘いの場であるとは思いますが,まずはきちんとした政策を提言したいという思いがあるからです。しかし,やはり政治家を目指すものとして政治そのものについて語らざるを得ないとも思うのです。というのは,バブルの崩壊以降に長い長い経済的停滞を経験しているわけですが,それは同時に政治の停滞も表しているからです。政治の機能不全が長く続き,政治に対する不信がかなり深刻になってしまったのではないでしょうか。これまで述べてきたことから理解可能であるとは思いますが,政治の再生なくして経済の再生なく,輝く未来の可能性も閉ざされてしまうからなのです。
しかし,民主主義国家において政治を語るとき,一つの古典的な疑念が付きまといます。すなわち,政治家はバカだが,それを選ぶ国民もバカだ,という命題です。政治家が無能なのは,国民がきちんと選んでいないという側面は,確かにあると思います。逆に,政治が国民の方を向いていないから,国民も真面目に政治家を選ぶ気にならないという側面もあると思います。いや,それどころか,きちんと選挙で投票しようと思っても,選ぶに足る政治家がそもそもいないという場合すらあるのではないでしょうか。この両面が,卵から鶏が生まれ,鶏が卵を産むという悪循環を作りだしているわけです。このように悪いもの探しを二者択一でしていると,堂々巡りの平行線にならざるを得ないのではないでしょうか。
官僚に対する国民的憎悪も同じことがいえないでしょうか。そもそも官僚とは,国民に仕える官吏です。ところが,今日の日本では政治の機能不全と同様に行政も機能不全に陥っていると多くの人は考えるでしょう。住民のニーズに充分に応えられず,応えたとしてもその仕事は遅く,紋切り型で,ともするとえらぶった文字通りの「お役所仕事」となっている場合が大きいのは確かです。人口に対する公務員数は先進諸国の中で最低水準であるにもかかわらず,行政の圧縮に対する要望の声が大きいのはこのようなお役所仕事に対する国民のうんざりとした感情が背景にあることはよく分かると思います。同じような仕事をしていても給料が高い,定時には仕事を終えて,休暇も取れて,そのうえ汚職を通じて甘い蜜を吸うこともできる。行政は非効率の象徴で,経済の重荷である。そういう認識が一般的なものになっているのではないでしょうか。それゆえ,民主党政権が誕生して以来,公務員給与は抑制し続けられているという現状につながってきます。ところが,業務の内容が減ったわけではないのに,部署によっては激しいサービス残業が存在しているのに給与水準を引き下げても仕事の量は変わらないということが発生しています。国民から嫌われているうえにより低い給与で同じ仕事をやらされれば,官僚のモチベーションも下がらざるを得ず,さらなる汚職や非効率を招く危険性を増大さてしまっています。政治と同じ悪循環にはまっているといえるでしょう。
ギリシアの財政破たんの例は日本にとっても示唆的だと思います。ギリシアでは公務員の数が非常に多く,そのことに対する批判も激しく行われているが,その一方で経済の大きな部分が公務員,すなわち公経済によって形成されているためにそれを切り捨てることは経済危機を加速させてしまいます。ただ,ギリシアで問題だったのは,その公経済を担うべき租税が機能不全を起こしていたことでしょう。隠れ借金で公経済を回すことは長続きするはずがないのです。もしも,自前の税金で公務員を雇っていたならば,北欧と同様に強い経済を作れていたかもしれません。もっとも,EUの中で金融と市場が統合されていたにもかかわらず,財政的な調整機能が存在しなかったことがギリシアの不幸であったとはいえます。経済統合されている場合は,かならず公経済を通じた調整機能が必要となるわけですが,それがなかったわけだからギリシアの破たんは必然だったのでしょう。これまで強調してきたように,経済の両輪は私経済と公経済です。ギリシアの場合は車の両輪の公経済の側に,全欧州的財政調整の欠如という大きな欠陥を抱えていたために,不可避的に経済危機と財政危機を招いてしまっていたと考えられます。もちろん,その背景にある金融危機も忘れてはいけませんが。
私は,このような政治の悪循環を断ち切るためには何ができるだろうかと考えてきたわけです。いや,そもそも私が政治家を目指すことのきっかけは政治が変わらなければだめだと思ったからだといっていいでしょう。どう変えるべきか,どう変えられのか,いやどう変えるのかを以下で示したいと思います。
日本の政治が抱えている最大の問題は,「政治制度」が現状に合わなくなってしまったということだと考えています。結局,政治の麻痺と国民の無関心はそれぞれが相互に依存しあって循環しているにすぎません。しかし,戦後の日本においてずっとその悪循環が続いてきたわけではないことは確かです。むしろ,高度成長期には経済だけでなく,政治もうまく機能していたのではないかとすら思えます。安い賃金と勤勉な労働力を背景として,輸出を梃子に高度経済成長を成し遂げていた時代は,実は政官民が一体となっていた時代でもあったといえるでしょう。政治は高度経済成長の利益を国内に浸透させるために,都市部には所得税減税を行い,地方では公共事業を行っていました。官民は一体となって,さらなる輸出競争力を形成しました。その際に,55年体制下の自民党は,党内派閥の政治的闘争を通じて,利潤の分配を調整していたのです。自民党による安定政権は官民との連携に役立ったし,中選挙区制を背景とした派閥間の党内政治はうまく機能していたといえるでしょう。ところが,人口の高齢化という時限爆弾に対する対処には成功したとは言えないし,小選挙区制度の導入によって政治的環境はガラッと変わってしまったのだと考えます。
私は,そもそも政治が時代についていけなくなりそうなときに,全く間違った政治改革をしてしまったのではないかと考えています。それゆえ,ただ国民が悪いのでも政治家が無能なのでもなく,政治制度が現在の政治的閉塞を作りだしてしまったのではないかと,そう考えているのです。したがって,政治制度の改革なくして日本の未来は暗いといわざるを得ないでしょう。ただし,なんでもかんでも政治制度のせいにするわけではありません。先に述べてきたような,医療や介護,教育,そして経済の問題に対処する方策を実現するための,あくまでもツールとしての政治制度改革が必要なのです。