東日本大震災で、私は医療支援に現地に入りました。
私が入ったのは、福島県いわき市です。愛知県医師会や豊橋の先生方と医師として、医療システムを多少勉強した者として支援に伺いました。
いわき市は、福島第一原発から3~40㎞程度の距離の人口34万人の都市です。工業製品出荷額は仙台よりも多くで東北で第1位、観光客数も仙台に次いで第2位です。今回の津波で大きな被害を受けた小名浜地区の海産物は観光名物となっています。
今回の震災で、いわき市は、地震・津波だけでなく、原発による「三重苦」に直面しました。
しかし、実はいわき市は、放射能レベルで言うと、福島市や郡山市よりもずっと低い値であり、人体に大きな影響がある水準ではありませんでした。
私が現地にいた3月18日~20日の放射能レベルは、1マイクロSvで、私が屋外で1年間浴び続けてCT検査を1回撮影する程度の放射能です。
しかし、私が支援に入る前の3月17日まで殆んど補給や支援は入っていませんでした。それは、放射能がなんとなく恐ろしく、補給物資を搬送する人も出てきていなかったからでした。兵糧攻めの状態で、だんだん尽きていく物資、薬剤を飲めないことで亡くなるかもしれない人々、「いわき市民は見捨てられた」という気持ちすら起こりつつあったということです。
恐ろしいことです。。。
見捨てられたという感覚ほど、被災地の人にとって絶望させることはあるでしょうか。想定外の災害が起き、しかも三重苦に苦しめられ、それでも石に噛り付く想いで暮らしている人たちにとって外からの支援が希望の光のはずです。それが受けられない状態。。。どんなに苦しいでしょうか。
そこで、私たち医療者こそ行かなくてはならないと考え、薬剤や水、食料とともに医師3人で現地に急行しました。放射能に知識がある医師が救援に来たということで現地では歓迎していただき、いわき市長も医師が支援に来たという事実を市民に報せて勇気づけたいということで、記者会見を行うことにしました。
しかし、いわき市から記者さんは全員いなくなってしまったということで、ネットに動画で流すこととしました。その後、各メディアに連絡し、取り上げていただくこととしました。
そのメッセージが伝わったのか、翌々日頃から少しずつ物資が入るようになりました。
物資は圧倒的に不足しているものの、物流業者、NPO、市町村、青年会議所など様々なルートから支援があり、搬送ができれば支援は入るのだということを実感しました。日本人が一体となって震災復興に動き出そうとしていることを強く感じました。
そして、私も一医師として、一衆議院議員候補者として、震災復興に全力を尽くしたいと改めて決意しました。
さて、その後は、これから必要な支援方法を考えなくてはならないということで、とにかく現場へ行かなくてはならないと地震や津波の被災地を視察しました。また、避難所で困っている患者さんの診療を行いました。
次は、現地の状況についてもう少し詳しく書かせていただきます。