医療・介護,経済・財政,そして保育・教育が私の政策の三本柱です。最後に,教育についても持論を明記しておきましょう。
昨年10月に大津市で中学2年生の男子生徒がいじめにあい,自らの命を絶ってしまいました。今年の7月になって,16人の生徒が大津市教育委員会の実施するアンケートに「自殺した男子生徒が自殺の練習をさせられていた」と回答したが発覚し,また2回目のアンケートには「葬式ごっこ」という記述も見られた。この事件によって,学校の閉鎖性,教育環境の悪化,教育委員会制度の問題点など様々な「教育の危機」が改めて露わになったと考えています。
また,学校教育の問題点はいじめの問題だけではありません。2011年に発表されたOECDの報告によると,日本のこどもの貧困率は14.9%となっており,およそ7人に1人が相対的貧困に陥っており,これはOECD各国平均を3.8%も上回っており,OECDの35カ国中6位という結果をもたらしています。また,モンスターペアレント問題や教職員の過労,待機児童の問題や若年層の非正規雇用問題などもよく耳にします。このような多くの,そして様々な問題が絡み合って「教育の危機」の原因となり,またその結果をもたらしているように思えます。この「教育の危機」を私たちはどのように対応していけばいいのでしょうか。
資源国ではない日本がここまで豊かになれたのは,人間という資源とそれを支えた教育制度であったのは間違いないと思います。しかし,それがいつの間にか時代に合わなくなっているにも関わらず,放置したり改悪したりした結果がこの「教育の危機」をもたらしたのではないでしょうか。しかし,これからも日本は人材育成による「人ぢから」を中心に成長していかなければなりません。
日本を牽引するような人材を育成し,そしてそのような人々が自分の能力を伸ばし発展させ,結果としてその個人が満足できる豊かな社会を目指すこと,これこそが教育の原点だと私は考えます。そこで目指すべき方向は,「地域集権的学校の確立」と「偏差値教育からの脱却」です。そのために必要な教育改革は大きく分けて「教育の質の向上」,「開かれた学校」,そして「教育の幅の拡大」の3つです。
まずは「教育の質の向上」です。今後日本で必要な人材は,与えられた問題を時間内に解くといった効率的な処理能力ではありません。自ら主体的に問題を設定し,その答えのないような問いに自らの答えを出すといった自発的学習能力です。こうした自らの興味・関心に導かれた主体的な学びの姿勢こそが今後の脱工業化社会には必要なのです。そのような教育環境を創り上げるために,現在の学校に最も必要なのは教員数の増員とそれによる少人数学級の導入です。
教員は現在より一人ひとりの生徒と多くの時間をかけて向き合えることができるため,より質の高い授業や生徒それぞれに対する個別の教育を行えると思います。2009年のOECDのデータによると,日本の1学級当たりの児童・生徒数は初等教育で28.0人,前期中等教育で33.0人となっており,OECD各国平均のそれぞれ21.4人と23.7人を大幅に上回っています。このような学級人数の多さは教員の負担も重くし,次に述べる教員中心主義にもつながってきます。
教員中心主義。これは何から何まですべて教員が行おうとするという問題です。不登校問題,校内暴力問題,児童虐待,生活指導,モンスターペアレントの対応,生徒の健康の問題,そして事務作業。生徒数が多いために授業の準備や成績処理にも時間を割かなければならない上に,こうした色々な作業を一人でこなさなくてはなりません。これはいくらなんでも大変すぎるのではないでしょうか。
例えば,クラスのある生徒が問題を抱えていたとすると,先生はその生徒に多くの時間をさかなければならなくなり,その他の大勢の生徒たちに時間が割くことが困難になります。また,それ以外の仕事が多くなってしまうとその問題を抱えた生徒への対応も怠る可能性が出てきます。そうなると生徒と先生の信頼関係は築くことはできません。そうした事態を避けるためにも,それぞれの専門家集団を作り上げる必要があります。
例えば,いじめや不登校の問題は精神的な要因が多くあるのでメンタルケアの専門家を学校に配置したり,生徒の健康問題に関しては栄養士さんを配置したり,学校の経営やその企画に関する事務作業は事務職さんに任せるなどが考えられます。このように出来る限り,教員の負担を減らした上で教員がそれぞれの問題に自主的にコミットしていくことが望ましいのではないでしょうか。
最後に教育の質の向上という点において述べておきたいことは,教員に関することです。医者という立場から考えると,少なくとも教員も大学院課程まで修了することが望ましいのではないかと考えています。医療同様,教育という分野は国民の誰にとっても重要なものです。果たして次世代の日本を支える人々を育成する教員が大学4年間だけで教育の専門性を高められるのか,少し疑問が残ります。
ある大学教員から教員を目指す学生の話を聞いたことがあります。教員を目指す多くの学生は自主的に「教育とは何か」,「なぜ教育が必要なのか」や「どのような教育が理想的なのか」などといった思考を深める時間や自主的に教育について勉強する時間がないらしいのです。そうです。制度上,卒業単位と教職課程に必要な単位を取ろうとすると,それ以外の勉学や社会的活動にさける時間があまりないのです。
そこで,私は医学と同じように教育学についても6年制を取るか,また教職員専門大学院の設置を行うなどによって,教員の質の向上を推進していきたいと考えています。それと同時に,低下傾向にある給与や長期化が続く勤務状況の改善も行っていかなければなりません。なぜなら教員も子供を持つ親の一人です。彼ら彼女らの生活環境を安定させ,「社会の宝」である子供たちに目を向けられるようにすることが教育の質を高める一歩なのかもしれません。
次に必要な教育改革は,「閉鎖的な学校」から「開かれた学校」への移行です。ここで「開かれた」とは空間的な意味と制度的な意味においてです。「空間的に開かれた」とは,地域で学校を作り上げていくイメージです。現在の学校空間には閉塞感が漂っている気がします。以前まではコミュニティーの中心であった学校も,地域や各家庭との連携を取らずにむしろ対立しているようにも思えます。
その結果,生徒が感じる世界は学校という空間のみに閉じ込められ,それが偏差値主義を強化してきたのではないでしょうか。つまり,閉鎖的な学校だからこそ,偏差値という一つの物差しでの序列化を可能に出来たのでしょう。
例えば,地域や保護者と連携して介ボランティア活動を教育プログラムの中に組み込んだとします。そこでの様々な活動を通じて生徒の興味・関心を刺激し,その結果その生徒が独自に持った目的意識により主体的に学ぶようになる,これが私の考える教育であり,地域に開かれた学校です。コミュニティーと接続された学校制度によって,偏差値による序列化は打破され,生徒それぞれの興味や関心に従った学びを形成できるのです。
こうした地域に開かれた学校を創り上げるためには,何より地域や保護者との協力関係が必要になります。そこで「学校支援地域教育本部」を設立し,地域の人々や保護者が学校の教育プログラムを教員と共に作る場を制度化し,教育の現状に関する検証や提言が出来るような環境を整えていきたいと考えています。そしてここで重要なのは地域教育における裁量の拡大と地方教育委員会制度改革です。教育の地域集権改革では,国が大事なことを決め,それ以外は地域の独自性を尊重します。
国が決める大事なこととは,各学年で最低限身に付けておくべき内容や1学級当たりの生徒数の上限などです。子供たちが社会に出た時に自分で生きていける能力を身に付けされることはナショナル・スタンダードとして確立する一方で,その他の地域での教育プログラムに関しては口出しをさせないようにすることです。そうして地域において多様な教育を行えるような環境整備が必要なのです。
ただし,そのような裁量を拡大しても,教育委員会が現在のように機能不全に陥っているのでは意味がありません。現場にいる教員と地域の人々,そして子供たちの声を反映したような予算編成や管理執行が行え,かつ最終的な責任を取れるような体制へと教育委員会制度を改革していかなければなりません。私は,1956年まで存在した教育委員会の公選制を復活させて,地域の教育に熱意があり,責任を持てる人々が民意を通して教育委員に選ばれるようにしてはどうだろうかと考えています。
また,「制度的に開かれた」とはどういう意味でしょうか。これは教育を受けたい,学びたいと思う誰もが学校に通えるようにするということです。これからの日本を担う子供たちが意欲的に学びたいと思っているのであれば,それを支えるのが政府や財政の役割でしょう。高校の無償化はもちろんのこと,私学助成も必要でしょう。家庭の収入などが理由で,子どもの将来の選択肢を狭めてはいけません。
「私学は贅沢だ」という発想それ自体が貧困な発想なような気がします。それから,奨学金制度の充実も必要だと考えられます。多くのヨーロッパの国では大学まで無償だったり,アメリカでは奨学金制度が充実していたりしますが,日本では私費負担が多い上に奨学金制度も充実していません。高校無償化と私学助成,そして高校・大学の奨学金の大幅増額により,学びたい子供たちが学べるような環境を整えていくことが,次世代を担う若者の育成になります。
最後は「教育の幅の拡大」です。ここまでは,小学校から大学までを中心に教育改革の方向性を示してきましたが,本当に大切なのは教育という幅を就学前まで拡張することです。つまりは,子育て支援や幼児教育というプライマリーケアの充実をはかることが重要なのです。現在,日本は先進国の中で一番子供が産みにくく,育てにくい社会だと言ってもいいのではないでしょうか。
国立社会保障・人口問題研究所の調査によると,予定子ども数が理想子ども数を下回る理由として「子育てや教育にお金がかかりすぎるから」と答えた割合が65.9%にも及んでいます。また内閣府の調査でも,「少子化対策で特に期待する政策」として「仕事と家庭の両立支援と働き方の見直し」や「子育てにおける経済的負担の軽減」などが上位を占めています。
現実はそのアンケート結果をよく反映しています。OECDの2009年のデータでは,就学前の教育段階における私的負担割合は56.6%となっており,24カ国中最大となっています。このように見ると,少子化が進行してきた理由は明らかです。子育てと就学前教育に対する公的教育支出が極端に少なすぎたのです。その一例が都市部における待機児童の問題です。
現在厚生労働省は待機児童の数は約2万5千人で,その潜在的待機児童の数は約85万人にも及ぶと発表している。一方で,民間の推計によると300万人を超えるのではないかとも言われており,そのニーズは計り知れないものがある。こうした社会的ニーズを満たして,出生率の向上や女性の社会進出を進めていくべきではないだろうか。いまや保育所は「保育に欠ける」乳幼児を預ける施設ではなく,すべての子供のための施設であるという認識に改めなくてはなりません。
このように就学前教育を充実させることは,出生率の向上や女性が働きやすい社会をもたらすだけではありません。こうした幼児保育の充実は,子供たちの好奇心や創造力,そしてコミュニケーション能力を高めると考えられます。「学ぶ」とは「まねる」ことから始まると言います。子供たちも多様で個性のある多くの子供たちと触れ合う機会が多くなることによって,様々なことをまね,そして学んでいくのだと思います。幼児教育におけるこれらの能力を高めることは,初等教育でも活かされていくはずです。
しかし,プライマリーケアの充実によって逆に親とのコミュニケーションが疎遠になってしまうのであれば本末転倒です。就学前教育は,親の愛が十分に子供に注がれるための環境整備にすぎません。ですので,親の働き方自体も改革していかなければなりません。仕事と家庭の両立が出来るような支援をしていかなくてはなりません。育児休業制度の充実はもちろんのこと,男女ともに育児に携われるような労働規制や時間外労働の規制強化などです。
労働基準法は労働者の健康を守るためにありますが,それが子供たちの精神的な健康をも守るような法律にならなくてはいけないのです。サービス残業は社会的損失のみならず,子供たちと向き合う時間という大切な時間をも奪っているのです。このように教育の幅を拡大していくとともに,親の労働のあり方も改革していかなければなりません。それは,子供たちにとって一番重要なのは親からどれだけの愛を注いでもらえたかという点にあると信じているからです。