話を元に戻すと,長時間労働をすればするほど,消費をする時間はなくなりその気力すらなくなるものです。経済が発展すると,産業構造は第1次産業から第2次産業,第3次産業へとシフトするといいます。それを経済学ではぺティー=クラークの法則というらしいですね。高度経済成長ではモノヅクリ,すなわち第2次産業が増大する傾向にありました。
たとえば3種の神器と言われた白黒テレビ,洗濯機,冷蔵庫が典型です。そのあとに続いた新3種の神器(3C)であるクーラー,車,カラーテレビはすべて第2次産業に属するものでした。いわゆるお父さんが馬車馬のように働いても,これらの家電を消費をすることはできたということになります。それを主に利用するのは,モウレツお父さんの家族たちであったし,製品がどんどん高機能化するにつれて何度も買いなおす必要があったからなのです。それこそが,豊かさの象徴だと考えられていたのです。
また,長時間労働をしてでも購入したいという魅力がありました。三種の神器を使うことというよりは,購入すること,所有していることが社会的ステータスであったからです。アメリカのヴェブレンという経済学者はこのことを指して顕示的消費といいました。近年におけるスマートフォンの爆発的普及がその好例ではないでしょうか。その機能を使いこなすことによる効用よりも,スマートフォンを持つという行為のために消費する,ということです。
高度経済成長における顕示的消費の対象は,「モノ」中心であったため長時間労働と両立したのでした。もちろん,お給料は右肩上がりの時代であるし,先に述べた輸出と昇給と消費とさらなる生産を生むという好循環の結果そうなっていただけのことでした。しかし,現在は違います。テレビも,パソコンも,携帯電話もだいたいみんな持っています。モノがほしいわけではなくなってしまいました。ニーズという意味では物質的にはある程度満たされているといってもよいでしょう。
それだけでなく,モノを持ちたいという欲求(ウォンツ)はもはや顕示的消費として機能しなくなってしまったのではないでしょうか。そうではなくて,家族と遊園地に行ったり,友人と山に登ったり,旅行に行ったり,映画に行ったり,外食をしたり,つまりサービスを消費したいという欲望のほうが大きくなってきていると思います。ゆったりとした時間を過ごすことが贅沢になってきていると思います。
サービス産業化が進めば,当然の帰結です。ところが,サービス残業をしていればそんな余裕はありません。経済が発展すれば必然的にサービス産業化せざるを得ないのであれば,長い労働時間は産業のサービス化とともに経済の足かせとなるといってよいのだと思います。
それともう一つ,第2次産業が成熟し切ったことの効果を日本はうまく使うことができませんでした。家電製品の発達によって,家事労働に費やさざるを得ない時間は大きく減少しました。たとえば,手洗いで洗濯をするのと少なくとも4時間はかかるが洗濯機があれば1時間で済むし,全自動洗濯機さらに洗濯にかける時間は少なくて済むわけです。このことは,家事労働がもはや女性=主婦の専売特許ではなくなったことを示しています。
ところが,長時間労働が基本的な働き方であると,それは家庭生活とは両立できません。特に,育児とは両立しえません。ゆえに,女性はキャリアか家庭かを選択せざるを得ません。これが,日本の労働力率を低めているだけでなく,優秀な人材を生産活動に従事させられないという日本経済の弱さの源泉の一つとなってしまったのです。
このことは,先にお話しした家族の回復と密接にかかわっています。家族の中心は「絆」です。伝統的な家族を回復するためには,この絆の回復が肝要です。神野直彦という経済学者はこの絆のことを,社会の紐帯(ちゅうたい)と呼びました。長時間労働を中心とした雇用慣行が,結局はこの社会の紐帯を破壊する役割をになってしまっているのです。女性は子育てに専念するべきかどうかという議論があります。
歴史的にみれば,女性が労働に従事しなかったのは戦後のわずかな期間だけです。とはいえ,家事や子育ての負担は大きかったので,子どもができれば必然的に家事労働に時間が多くなっていました。しかし,先に言った通り現代では違う。家電の発達によって,状況は大きく変わってしまったのです。逆にいえば,長時間労働さえなければ男性もそれなりに子育てを楽しめるし,家族の絆を再確認しながらサービス消費を楽しむことができるのです。カール・ポラニーという有名な経済学者は市場経済のグローバルな展開を「悪魔のひき臼」と呼びましたが,まさに長時間労働は家族にとって悪魔のひき臼といえます。そしてこのことが,消費できない社会の根底に,どっしりと根を張ってしまっているのです。